1988年のヨーロッパ、トルコ編 (? イスタンブール近郊?カッパドキァへ)

ウチヒサール旅行記

ももんがあまんさんの旅行記

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旅行記タイトル:1988年のヨーロッパ、トルコ編 (? イスタンブール近郊?カッパドキァへ)

旅行期間:1988/09/06〜1988/09/13

旅行記の内容: トルコは、アジアとヨーロッパの中継点であると言われています、「ヨーロッパの旅」の中に入れて良いものかどうか ? ロシアやスペイン以上に、疑問もあるかもしれませんけれど、一応、EUの準加盟国ですし、このシリーズの中に入れておきます。

 最初のシリーズ?は、イスタンブール近郊の町エディルネから、東へ東へと向います。


 表紙の写真は、奇岩怪石で有名なカッパドキアで、多分一番、アクロバティックな、天然の造形物でしょうか ? この旅行記は、1988年ですから、もはや20年近く経過しておりますし、果たして・・・ 無事でありましょうか ???

写真: トルコは、アジアとヨーロッパの中継点であると言われています、「ヨーロッパの旅」の中に入れて良いものかどうか ? ロシアやスペイン以上に、疑問もあるかもしれませんけれど、一応、EUの準加盟国ですし、このシリーズの中に入れておきます。

 最初のシリーズ?は、イスタンブール近郊の町エディルネから、東へ東へと向います。


 表紙の写真は、奇岩怪石で有名なカッパドキアで、多分一番、アクロバティックな、天然の造形物でしょうか ? この旅行記は、1988年ですから、もはや20年近く経過しておりますし、果たして・・・ 無事でありましょうか ???

エディルネの風景
 ブルガリアやギリシャとの国境に位置する古い町です。
 古代ローマの時代には、征服者の皇帝(ハドリアヌス)の名を採って、ハドリアノポリスと呼ばれた町です、コンスタンチノープルの陥落 (1453年) 以前には (約百年間) オスマントルコ帝国の首都であった町(当時は、アドリアーノポリと呼ばれていたらしい)で、メフメット2世は、この地の宮廷から、コンスタンティノープルを臨み、その攻略を命じたとの事です。

エディルネ
セリミエ・ジャミイ(1569?1575)
 今は寂しいと言って良いほどの、地方都市ですけれど、街中には、数多くのモスクがあります、その数、スケール共に、イスタンブールに劣るものではありません、首都がコンスタンティノープルに移されて後も、長く王宮があり、繁栄したと言う、巨大なモスクに、そんな面影の覗える、そんな町です。

エディルネ
セリミエ・ジャミィ
 この丸天井(ドーム)は、31.5mで、イスタンブールのアヤ・ソフィアのそれを超えているそうです。

エディルネ、ロカンタ
 カメラを向けたらポーズをとってくれました、これから後もつくづく思うのですけれど、トルコ人というのは、カメラがお好きなようです、偶像(絵画等も)は禁止のはずなのですけれどね、写真はOKなのでしょうか ? どんな理屈が付いているのでしょう ?
 因みに、この食べ物は、ギリシャで言えば「ギロ」、こちらでは「ドネルケバブ」と言います、勿論、こちらは羊肉です。

イスタンブール、ブルー・モスク
 この町に来るのは2度目なので、今回、町の写真は、あまりありません。
 でも一応、記念に一枚、けれど、夕暮の写真なので、移りが悪いです(腕前の責任ではありません、多分??)。

イスタンブール
アヤ・ソフィア寺院
 AC360年、コンスタンティヌス大帝の息子、コンスタンティヌス2世によって建てられた、ビザンチン帝国最大の大伽藍、何度か火災によって消失したけれど、そのつど建てなおされた、前述のブルー・モスクやエディルネのセリミエ・ジャミィなどのイスラム建築にも与えた影響は大なるものがあるらしい。

イスタンブールの靴磨き
 ♪赤い夕日が ガードを染めて?♪
 宮城まり子さんの「ガード下の靴磨き」を思い出します・・・ みんな親父ですけれど、最近の日本では、殆ど見られなくなった光景ですね。

イスタンブール ルーメリ・ヒサール
 メフメット2世により、コンスタンテイノープルの攻略に際して、建設された(1452年)要塞です、黒海とマルマラ海を結ぶボスボラス海峡を睨んでいます。

イスタンブール ルーメリ・ヒサール
 要塞の対岸はアジア側です、なかなかに感慨深いものがありますけれど・・・ 巨大な橋は、日本の某ゼネコンが建設したものであるとか、いわゆる悪名高い「ODA」ですね、いくらくらい儲けたのでしょうかね ?

イスタンブールの夕暮
 本当は、ずっと美しいし、雰囲気も良いのですけれどね、カメラマンの腕が悪いのです・・・ ああでも、天気も少し悪かったのですね・・・ (言い訳??)

ブルサ、イェシル・テュルベ

 オスマン・トルコの開祖、メフメット1世の霊廟だそうです、「ターコイズブルーに輝くタイルが・・・非常に美しい廟」 と、ガイド本には書いてあったけれど、正直なところ、僕の目には、それほどでもありません。

 帝国の開祖の廟としては、実にジミです、けれど、ひょっとしたらその辺りに、イスラムの人間に対する見方というのが、現れているのかもしれません、基本的に、イスラムの人間観は徹底した「性悪説」ですし (故に、ドグマ(教説=コーラン)が、生活のあらゆる側面を、馬鹿馬鹿しいほど厳しく規定しているのだけれど) 勿論、カソリックのような、「列聖」という習慣も無かったようだし、死んでしまえば、王といえども、こんなものなのかも知れません。

ブルサの風景
 ブルサの町は、オスマントルコの最初の首都(1326?1365年)です、高低差があり、緑も豊かな美しい土地ですけれど、都としては、正直な感想は、「みすぼらしい・・・」と言う感じです。

 イスタンブールのトプカピ宮殿などでも、思った事だけれど、オスマン・トルコが残した、文化・芸術と言うものに、正直なところ、あまり見るべきものは無い (宝石細工程度か?) と言うのが、僕の感想です。

ブルサの街並
 建築ではローマに及ばないし、哲学や芸術は、ギリシャに比べるべくもなし、無論、ルネサンスは起きなかったし、人文主義も自然科学も、啓蒙思想も、イスラム世界には、生まれなかったのですね。

 それら全てが、このイスラム最大の帝国の、あまり見るべきものの無い、「古都」の姿に窺い知れるような、そんな気がすると言えば、言いすぎでしょうか ?
 少なくとも、イスラムの興った七世紀、この地域は、ギリシャ、ローマ、ペルシャの遺産に満ち溢れた、世界一の先進地域だったのだけれど、イスラムは、その後継者には成り得なかったのですね・・・ それは確かです。

ブルサの街並
 遠目には、美しい町で、僕の物言いは、少し厳しすぎないかと思われる方も多いでしょうけれど、街に近づいて見れば、解かってもらえるかも知れません。

ブルサの街角

 やや、埃っぽい町です、トルコ風の民家に、エキゾチシズムを感じる、そんな町の裏通りです。

ブルサ、イムラッド・ジャミィ
 ブルサの街中には、さすがに古都だけあって、ジャミィ(寺院)が、沢山あります、オスマン帝国初期の建築が多いので、大きくは無いけれど、こじんまりとしているのも、悪くは無いです。

ブルサ、イムラッド・ジャミィ

 西洋建築との比較で言えば、ロマネスク建築(10?11世紀)か、それ以前(プレ・ロマネスク)のようなものでしょうか、これら、多くの建築が、14?15世紀という事を考えれば、この時点で、すでに建築に於いては、西洋世界に遅れていたようですね、それなりに魅力的な雰囲気はありますけれど・・・ 「エキゾチシズム」は、確かにあります、逆に言えば、それ以外の言葉が出てこないような・・・

ブルサ、イムラッド・ジャミィ
スルタンの霊廟
 此処に奉られているスルタンが誰なのかは、忘れてしまいました、ブルサがオスマン帝国に征服されたのは、二代目オルハンの時代という事なので、多分、それら初期のスルタンの誰かでしょうけれど・・・ 見た所、メフメット一世の霊廟以上に、ジミ?です、ほったらかし、と言うほどの感じですね。

 オスマン帝国というのは、あくまで、オスマン家の帝国であり、トルコ人の国家ではなかったとも言います (故に、オスマン・トルコと言う言い方は、ヨーロッパの見方であり、トルコ人自身は、そう呼ばないそうです)、塩野七生おばさんの小説を信ずれば、帝国の宮廷には、スルタンをはじめ、純正のトルコ人と言うのは、殆どいなかったというのが実態だそうで、革命後の、近代トルコの民族主義にとっては、オスマン家の権威などと言うものは、殆ど意味の無いものなのかも知れません。

ブルサ、イムラッド・ジャミィ
スルタンの霊廟
 天井には、アラベスク紋様とアラビア文字、これはなかなかに魅力的です、偶像禁止との関係でしょうか、絵画、彫刻、演劇などに、見るべきところの無いイスラム芸術ですけれど、芸術的情熱の全てが、これらデザインに向うしか無かった、という事でしょうか ??  でも、良くみると、ちょっと雑かなと言う感じも・・・

ブルサ、イムラッド・ジャミィ
霊廟と墓地
 霊廟の裏には墓地があります、多分普通の人々の墓標だと思いますけれど、スルタンの霊廟と、その扱いは、まるで違います、スルタン霊廟も、それほどの物ではないのですけれど、一般人の墓標は更に・・・ ですけれど、いわゆる「何々家の墓」と言うものが無いようです、ローマやヨーロッパや日本などにも、当たり前に見られる「家系の観念」は無いのでしょうか・・・ ??? 良く解かりません、隣の墓標との明確な仕切りというものが無かったような、そんな記憶があります、「家」よりも「部族」の絆が強いのかも知れません、ある意味、より中世的・古代的な世界なのかも知れません。

ブルサ
ジャミィ&子供達
 お墓の近くで遊んでいた子供達です、カンフー映画が流行っていた頃ですね。

コンヤ、メブラーナ博物館(霊廟)
 コンヤの町は、セルジューク朝の頃からの都との事、けれどやはり、そのワリには、町としての魅力は、他の町と同じく、パッとしません。

 勿論、此処の一番の見所は、この霊廟、ケマル・パシャ・アタチュルク(トルコ共和国初代大統領)によって禁止された、イスラム教神秘主義教団(メブラーナ教団)の本部です、今は、博物館という事になっているようで、無関係な一観光客の訪問も自由ですけれど、未だ、暗然とした勢力は持っているような、そんな気もしないではありません。

コンヤ メブラーナの棺
 なかなかに色鮮やかな衣に覆われた「棺」であります、今も当然、本物の遺体が入っているそうです、僕は勿論、あまり信心深くは無いので、遠慮なく一枚撮らせて頂きました(失礼)。

 本来イスラム教に於いては、神の前には万人が平等なので、聖職者と言う階級は存在せず「聖人」「聖者」と言うものも存在しない筈なのですけれど(但し、イスラム法学者と言うのがいて、こいつがなかなか五月蝿いのですね)、一部の教団や一部地域(アフリカ・マグレブ地方等)では、その辺りがいい加減になっているところもあるようです、この人なども、過っては、聖者扱いにされていたようです。

コンヤ、メブラーナの霊廟
 天井の紋様です、何か意味があるのでしょうか ?
 メブラーナの教え(理想)と言うのは、「神との合一」という事だそうで、メブラーナそのものが、それを果たした人という事になっているそうです、あの有名な踊りは、そのための技術のようなもので、片手を天上に、今片手を地上へと向けて、ぐるぐると回転するのだそうです、その時、人の体は、一種の避雷針のようなものとなって、天上からの神のエネルギーの通り道となるそうです、マア、そんな証拠は誰も証明できませんし、へエ?と言う程度の感想ですけれど (多分一種の恍惚状態に陥るのかもしれませんね、クルクル廻るので、目を回すとか・・・) 申し訳ない、あまり、信心とは縁のない性格なもので・・・

カッパドキァ
ネヴィシュヒールの街並
 カツパドキァ観光の拠点として宿泊した町です、カッパドキァは、観光地としてはトルコで一番の有名処であるけれど、周辺の町(村)自体は、かなり貧しいようです、日干し煉瓦の、今にも崩れそうな、そんな街並みが続きます、多分ここいらは未だ、オスマン・トルコ時代そのままであるのかも知れません、だとすれば、税の過酷さを感じさせるし、帝国の本質が垣間見えると、そんな気がします、率直に言って、イスラム国家というのは、こういう国家だったのですね・・・ 近代化といえども、これを一朝一夕に、変えられるものではないでしょうね・・・

カッパドキァ
ネヴィシュヒールの人々
 城壁の中の、旧市街らしき町を歩いてみました、昼間のせいでしょうか、町にいたのは、女性と子供ばかりです、成人の男たちは、多分、働きに出ているのでしょうね、トルコ人というのは、結構、働き者であるのかも知れません・・・ 。

ネヴィシュヒールの子供達
 城壁の旧市街から、新市街の方へ降りてきました、ここでも「フォト、フォト」の嵐です、真ん中の、三人の女の子を取りたかったのですけれど、ガキどもが寄ってきて・・・ 嗚呼、おやじまで・・・

カッパドキァ
ネヴィシュヒールのマーケット
 市場の風景です、ここでもカメラを向けると「ポーズ」をとってくれます、ホント、お好きですねえ・・・ けれど、市場は男ばかりで、はっきり言って、むさくるしいですねえ、女性がいれば、もっと売れると思うのですけれど・・・ 男にとっては、一種の「既得権」なのだと思いますね、この辺りが克服されなければ、まだまだ「近代化」は難しい、と言うところでしょうか。

カッパドキァ
ネヴィシュヒールのマーケット
 市場に限らないけれど、トルコでは、大人に混じって、たくさんの子供達(男子のみ)が働いています、アイラン(飲み物)やチャイを売って歩いたりという事は、常にあります、トルコでは、子供達は、幼い頃から、大人の世界に巻き込まれているのです。

 勿論、わが日本でも、田舎へ行けば、ほんの三十年ほど以前なら、何処にでも見られた風景でもあります、子供と言えど、ただ「可愛い」存在では無かったのですね、野良仕事に於いては、当然の労働力であったし、「早く大人になるべき、未熟なる存在」と言う感じでしょうか、そんな子供には、何処かひねこびた「影」があるのです、それが良いのか悪いのか、良くは解かりませんけれど、スペインの子供達とは、だいぶ違うような、そんな気がします、特に「男の子」に、そうした風情を感じるのですね。

カッパドキァ
ウチヒサールの街並
 まる一日かけて、カッパドキアツアーに参加しました、「ヒサール」と言うのは、「要塞」と言う意味であるそうです、左側の小山のような「岩」ですね、中に入っていないので良く解かりませんが、穴ぼこだらけですね。

ウチヒサールの風景

 なんと言ってよいのでしょうか、不思議な風景です、風に削られた風景のようです。

ウチヒサールの街並
 どうみても、貧しい村ですけれど、此処にも何本ものミナレットがあります、一種の共同体の集会所のようなものかも知れませんけれど、「貧しさ」が宗教への傾斜を生むと言う面も、あるかも知れません。

 けれど、エキゾチックな風景です、何処か、アフリカのイスラム国家の村に似ているような、そんな気もする風景です。

ウチヒサールの風景

 世界の何処にも無いような、此処だけの風景だと思います、ただの自然現象だといえば、確かにそうなのですけれど、それでもやっぱり、目を見張る風景です。

 縦断するハイウェイがまた、印象的ですね。

カッパドキァ
ギョレメの風景
 ギョレメは、有名なキノコ岩の谷です、遥か彼方に見えるのは、多分、ウチヒサールの岩だと思いますけれど、違うかも・・・ ??

カッパドキァ
ギョレメの風景
 火山灰土の土地という事自体は、珍しくは無いと思いますけれど、こんな風景は、多分何処にも無いような、そんな気がします。

ギョレメの岩窟住居
 ウチヒサールと同じ、岩をくり抜いての住居です、こういうのは、イタリアのマティーラとか、スペインのグラナダ、ギリシャのサントリーニなどにもあります、考えてみれば、お手軽で簡単なのかも、けれど、何時崩れるか、安心して眠れない気もしますけれど、この地に暮らした人々にとっては、どうだったのでしょうか、中を見てみたい気もありましたけれど、グループツァーですから、時間がありませんし、勝手に離れるわけにも行きません。

ギョレメの岩窟住居
 掘られている岩は、ウチヒサールなどにも見られた、白い火山灰土のようです、いかにも脆そうです、マア多分、好き好んで住んだのではないでしょうね、そう思います。

ギョレメのキノコ岩

 キノコ岩の代表選手ですね。


 キノコ岩と言わず、○ン○岩と言う、品の無い人もおられますが、これはどうみたって、キノコです、こんな○ン○、あるわけねーだろ!

 え、お前こそ品が無い ? 失礼致しました。

ギョレメ
岩窟聖堂から
 
 キリスト教の岩窟聖堂だった所だそうです、内側に、フレスコ画の跡がいくらか残っています、けれど、それよりも周囲の風景が印象的でした、因みに、このアングルは、当地のインフォメーションにあったポスターに倣いました。

ギョレメ
岩のトンネル
 
 ギョレメだったかゼルベだったか、忘れてしまいました、ガイドさんに連れられて、トンネルを潜って、たどり着いた谷の、岩窟住居の集落です、イスラムに抑圧された、キリスト教徒の隠れ谷であったらしいです、落人部落と言う感じですね。

カッパドキァ
ローズヴァレーの夕日
 ツアーの最後は、ローズヴァレーと呼ばれる景勝地、夕日に照らされて薔薇色に見えるからだそうです、写真では良く解からないかも・・・ ?

カッパドゥキァ
カイマクルの地下都市
 すみません、どちらが上やら下やら、良く解からなくなってしまいました、マア、それくらい、入り組んだ地下世界という事ですね、まるで「モグラの巣」であります。

カッパドキァ
カイマクルの地下都市
 大きな地下都市ですけれど、ローマのカタコンベほどには頑丈な作りではありません、今にも崩れそうな・・・ かなり危うい気もします・・・

カッパドキァ
カイマクルの街並
 ウーン、地下都市とも、岩窟住居とも、あまり大差は無いのではと思わせる、日干し煉瓦の村です。

 貧しさと言うものは、相対的なもので、右も左も皆貧しければ、気になる事でもないのでしょう、だから、施政者は常に外からの情報を規制して来たのです、けれど、今日のトルコでは、そうも行きません、情報の流入は、人々の目を醒まさせる契機ともなれば、嫉妬と羨望は、それが満たされぬときには、憎悪に変り、近代化への反撥となる事もあるのですね・・・
 トルコというのは、西洋の近代(政教分離)とイスラムの中世(宗教国家)が、今衝突している、そういう国です、この感覚は、トルコの大地を、東へ行けば行くほど、ますます色濃くなります、トルコ編?は、そんな東部地域を歩きます。

ネヴィシュヒールの人々
 町を歩いていると、至るところから「フォト、フォト」と言う声がかかります、屋根の上で働いていたおばさん達まで、わざわざ手を休めて降りてきました、ホント、みんな「写真」が好きなのですね、「偶像禁止」は何処へ行ったのでしょう、女性も「顔出し」OKです、勿論、トルコでは、ケマル・アタチュルクの革命(1922年)以来、イスラム法は廃止されているし、女性のプルカも禁止されているのですね、ごらんのようにまだ被っている女性もいるけれど、たとえゆっくりとでも、少しずつ、「イスラムの桎梏」が克服されてゆくのだとすれば、喜ばしいのですけれど・・・ (プルカなんて、暑苦しいし、気味が悪いだけなんだから、絶対「素顔」が良いです!) 。

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